サイトにあげるまでもないSSおきば
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ベルデ・コロールは疲れ果てていた。
自宅玄関に入った一歩目で箒を立て、二歩目で魔女帽子を引っ掛けて、三歩と四歩の合間にパンプスを脱ぎ捨てる。
シワにならないよう、ローブの扱いだけは丁重に。裏地は今年流行のラベンダーカラー。ちらりと目に入るだけでも多少心が穏やかになる、ベルデのお気に入りだ。
ウィッチ・クラフトとファッションを両立するデザイナーとして、会社勤めを始めて四年。新人ともベテランともつかないベルデからすれば、初めて単独でプロジェクトを乗り越えたこの一週間は過酷の一言につきた。
もはや自宅でこうやって一息つけるのも久しぶりのように思える。できることならアルコールでも摂りたいところだったが、もう十時を越えているので食事をするのも気がひける。
そも、次の日には後悔することになるのだ。ベルデは明日の自分に呪われるようなことはしない主義だった。
そう思うと一刻も早く眠ってしまいたいものだが、体は疲れ切っているのに頭だけが冴えている。棺桶ベッドでもあればよかったのだが、あれが発売された頃のベルデはまだ新入社員で、懐に余裕がなかった。
──事故こそ起こっているものの、人気商品だったのだからそろそろ新作を出しても良さそうなのに。
ハァ、とため息をつくと、ベルデは周りを見る。
眠れないときのために作り置いていた魔法薬は、一週間で使い切ってしまった。今から作るような気力はないし、使い捨ての温感アイマスクもストックがない。
代わりに、買ったきり放っておいたままになっていたバスボムがあった。
箱の裏に書かれた説明を読みながら、ユニットバスへ向かう。
住居選びの際は少し小さいと思っていたのだが、今はこのコンパクトさがありがたい。杖を一振りすればすぐに清潔さを取り戻すし、湯を張るのにも時間はかからない。
手早く服を脱いで洗濯機に放り込む。魔法の発動は明日の自分に任せ、ベルデは再びユニットバスへ。湯が溜まる前に体を清めると、早速バスボムの包装を剥がす。
乳白色の球体は思ったよりも滑らかで、粉っぽさは少しもない。鼻を近づければ分かる程度の、ほのかなラベンダーの香りがする。
まだ湯を入れている途中の浴槽へ沈めれば、にわかに泡が立ち始める。細かく白い泡が湯面を埋め尽くす様は、確かにパッケージに書かれた通りの「雲の海」を思わせる。
丁度いい深さになったところで蛇口をひねり、湯を止める。少し膝を曲げて座れば、泡が鎖骨の辺りに触れるくらいだった。
天井を見上げると、ミントグリーンのタイルではなく、濃紺の夜空と銀色の月があった。バスボムに内蔵された幻影魔術が、夜の雲海を映し出しているのだ。
少し高めの水温に暖められて、ベルデのこわばった神経もほぐれるようだった。指を組んで腕を上に伸ばせば、頭もようやく眠気を受け入れてくれる。
ふわりとあくびを一つ。後はバスボムの包装で強調されていた注意書きの通り、湯船で眠らないように注意するだけだった。
自宅玄関に入った一歩目で箒を立て、二歩目で魔女帽子を引っ掛けて、三歩と四歩の合間にパンプスを脱ぎ捨てる。
シワにならないよう、ローブの扱いだけは丁重に。裏地は今年流行のラベンダーカラー。ちらりと目に入るだけでも多少心が穏やかになる、ベルデのお気に入りだ。
ウィッチ・クラフトとファッションを両立するデザイナーとして、会社勤めを始めて四年。新人ともベテランともつかないベルデからすれば、初めて単独でプロジェクトを乗り越えたこの一週間は過酷の一言につきた。
もはや自宅でこうやって一息つけるのも久しぶりのように思える。できることならアルコールでも摂りたいところだったが、もう十時を越えているので食事をするのも気がひける。
そも、次の日には後悔することになるのだ。ベルデは明日の自分に呪われるようなことはしない主義だった。
そう思うと一刻も早く眠ってしまいたいものだが、体は疲れ切っているのに頭だけが冴えている。棺桶ベッドでもあればよかったのだが、あれが発売された頃のベルデはまだ新入社員で、懐に余裕がなかった。
──事故こそ起こっているものの、人気商品だったのだからそろそろ新作を出しても良さそうなのに。
ハァ、とため息をつくと、ベルデは周りを見る。
眠れないときのために作り置いていた魔法薬は、一週間で使い切ってしまった。今から作るような気力はないし、使い捨ての温感アイマスクもストックがない。
代わりに、買ったきり放っておいたままになっていたバスボムがあった。
箱の裏に書かれた説明を読みながら、ユニットバスへ向かう。
住居選びの際は少し小さいと思っていたのだが、今はこのコンパクトさがありがたい。杖を一振りすればすぐに清潔さを取り戻すし、湯を張るのにも時間はかからない。
手早く服を脱いで洗濯機に放り込む。魔法の発動は明日の自分に任せ、ベルデは再びユニットバスへ。湯が溜まる前に体を清めると、早速バスボムの包装を剥がす。
乳白色の球体は思ったよりも滑らかで、粉っぽさは少しもない。鼻を近づければ分かる程度の、ほのかなラベンダーの香りがする。
まだ湯を入れている途中の浴槽へ沈めれば、にわかに泡が立ち始める。細かく白い泡が湯面を埋め尽くす様は、確かにパッケージに書かれた通りの「雲の海」を思わせる。
丁度いい深さになったところで蛇口をひねり、湯を止める。少し膝を曲げて座れば、泡が鎖骨の辺りに触れるくらいだった。
天井を見上げると、ミントグリーンのタイルではなく、濃紺の夜空と銀色の月があった。バスボムに内蔵された幻影魔術が、夜の雲海を映し出しているのだ。
少し高めの水温に暖められて、ベルデのこわばった神経もほぐれるようだった。指を組んで腕を上に伸ばせば、頭もようやく眠気を受け入れてくれる。
ふわりとあくびを一つ。後はバスボムの包装で強調されていた注意書きの通り、湯船で眠らないように注意するだけだった。
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観客の熱気を浴びてスタートラインに立つのは初めてのことだった。
緊張などするタチではないと思っていたが、実際に歓声を聞き、大勢の視線を集めれば自然と心が沸き立ってくるようだ。
呼応するように、己の内の炎も猛る。
レース競技が発展したホウキが木製だったのは、ある種必然だったのかもしれない。耐火性をそなえた素材がメジャーであれば、俺のような火属性魔法の使い手が魔力暴走を起こす事故が二、三回は起きていただろう。
深く呼吸して、どうにか心を落ち着ける。
まだ火を灯すには早い。片手に掴んだ相棒は、まだ冷たさを保っている。
アイアスが生んだ鋼鉄製ホウキ「ボルケーノ」。
耐火性に優れたこのホウキが、火属性使いの俺が全力で扱える唯一のスピードレース用ホウキだ。
そして、アイアス地方で作成された唯一のスピードレース用ホウキでもある。
歓声が高くなって視線を上げてみると、丁度スターターが足場を上がっているところだった。
額の上から防塵ゴーグルを下ろし、首に巻いたスカーフを鼻の上まで持ち上げる。靴底の厚いブーツで二回蹴れば、軽く砂埃が立った。
周りのレーサーと比べれば、俺の装備は全体的にもっさりと見えるだろう。軽量化を最優先にされたスピードレーサーは、魔法使いの必需品であるローブもまとわない。靴は地面を歩くことを想定していない布製で、アイアスの道なら一分と経たず足が血まみれになりそうだ。
とはいえ、俺が装備を軽くする理由もない。ボルケーノはそれだけで二十キロもあって、ホウキとしては規格外の重さなのだから。
スターターが足場を上りきり、会場はにわかに静かになっていく。「レディ」の声と共にスターターが杖を上げると、周りのレーサーは皆ホウキを上昇させた。
歴史ある木製ホウキは自由に空を飛ぶ。対して鉄製ホウキは火炎の推進力で駆けるしかない。
結果、俺はまだ地に足をつけていた。ただホウキに跨って、ズシリと重いボルケーノの負荷を腕で感じる。
防塵ゴーグル越しの視線を上げると、スターターの杖の先に光が集まっていた。
その光が強まって、臨界点を越えた瞬間。破裂音と共にスタートの合図が放たれた。
思い切り大地を蹴り、己の内から魔力を開放。ボルケーノの穂にあたる部分に叩き込めば、埋め込まれた魔石から炎が噴出した。
蒸気機関に比べれば、この初速は断然速い。けれどスピードレース用に調整されたホウキとその乗り手は、当たり前のように前を飛んでいた。
防塵ゴーグルに砂が叩きつけられる。前方のレーサーが巻き起こす風が髪を暴れさせた。
木製ホウキの動力は風属性のマナだ。特に速度偏重のホウキとなれば、後方を気遣うような造りはしていない。
先頭集団に入れないことは確定していたから、風の洗礼を受けるのも分かっていた。ボルケーノの火力は控えめに、確実にコースを走ることを優先する。
鉄製ホウキの難点は、制御の難解さそのものだ。
アイアスのホウキは止まれない。速度を出したまま、己の重心移動でコーナーを曲がる必要がある。
──焦りは禁物だ。たとえ戦闘集団がはるか前方にいたとしても。
集団の最後尾に貼りついたまま、付かず離れずを維持する。知らず流れていた冷や汗が風で吹き飛んでいく。空気の流れる音が耳元で延々鳴り続けるのももはや気にならず、過集中のせいで遠く客席からの歓声や怒号すら聞こえてきそうだ。
重苦しい低音の怒声は、聞き慣れた声音のような気もする。おそらくアイアスから来たドワーフ族だ。
まず間違いなくボルケーノの勝ちに賭けているから、俺がモタモタしているのが許せないのだろう。
守銭奴とすら呼ばれる彼らだが、土にこだわる性質から強い郷土愛を持っているのだ。
レースも終盤。レーサーが順に最終コーナーへ入っていくのを尻目に、俺はアウトコースへ膨らんでいく。
スピードレースの最後の直線。
アイアスのホウキが輝けるのはここしかない。
姿勢は低く。風圧で吹き飛ばされないように柄を握りしめる。
──鉄製ホウキの筒状になった穂から、後方に向けて放たれる炎を竜の息吹(ドラゴン・ブレス)と表現したのはどこの情報誌だったか。
その比喩が気に食わなかった職人が作ったのが火山(ボルケーノ)だ。
目の前が開けて誰の背中も見えなくなった瞬間。ボルケーノに内蔵された魔石へ再度魔力を注ぐ。
今度は全力だ。アイアスと違ってマナは有り余っている。周囲から集めてまとめてしまえば、魔石から放たれる炎は更に強くなる。
火炎が炸裂。爆発的な加速で直線を飛ぶ。
歓声が聞こえなくなった。観客席の最前列で、ドワーフ族が箒券を放り投げた姿勢のまま固まっている。ゴーグルに当たった砂利の一粒までを引き伸ばされた知覚で視認した。
二、三メートルの距離を取って、左手に並ぶ木製ホウキのレーサーたちを遠慮なく抜き去っていく。
ここまで来れば、意識すべきは“ゴールの先”だ。
ゴールラインは瞬きの間に通過。直後から減速を始めて、段々と音が戻ってくる。
いっそ熱狂的な歓声だった。コース外周の壁が近づくにつれて悲鳴じみた声も混ざってくるが、俺がギリギリで曲がり切ればそれも収まって歓声だけになる。
充分に減速しきってから、思い切って飛び降りる。ぐるりと見渡せば、席を埋め尽くした観客たちがアイアスの鉄製ホウキの初勝利に沸き立っていた。
最前列のドワーフ族はといえば、ついさっき放り投げた箒券を必死に探していた。
緊張などするタチではないと思っていたが、実際に歓声を聞き、大勢の視線を集めれば自然と心が沸き立ってくるようだ。
呼応するように、己の内の炎も猛る。
レース競技が発展したホウキが木製だったのは、ある種必然だったのかもしれない。耐火性をそなえた素材がメジャーであれば、俺のような火属性魔法の使い手が魔力暴走を起こす事故が二、三回は起きていただろう。
深く呼吸して、どうにか心を落ち着ける。
まだ火を灯すには早い。片手に掴んだ相棒は、まだ冷たさを保っている。
アイアスが生んだ鋼鉄製ホウキ「ボルケーノ」。
耐火性に優れたこのホウキが、火属性使いの俺が全力で扱える唯一のスピードレース用ホウキだ。
そして、アイアス地方で作成された唯一のスピードレース用ホウキでもある。
歓声が高くなって視線を上げてみると、丁度スターターが足場を上がっているところだった。
額の上から防塵ゴーグルを下ろし、首に巻いたスカーフを鼻の上まで持ち上げる。靴底の厚いブーツで二回蹴れば、軽く砂埃が立った。
周りのレーサーと比べれば、俺の装備は全体的にもっさりと見えるだろう。軽量化を最優先にされたスピードレーサーは、魔法使いの必需品であるローブもまとわない。靴は地面を歩くことを想定していない布製で、アイアスの道なら一分と経たず足が血まみれになりそうだ。
とはいえ、俺が装備を軽くする理由もない。ボルケーノはそれだけで二十キロもあって、ホウキとしては規格外の重さなのだから。
スターターが足場を上りきり、会場はにわかに静かになっていく。「レディ」の声と共にスターターが杖を上げると、周りのレーサーは皆ホウキを上昇させた。
歴史ある木製ホウキは自由に空を飛ぶ。対して鉄製ホウキは火炎の推進力で駆けるしかない。
結果、俺はまだ地に足をつけていた。ただホウキに跨って、ズシリと重いボルケーノの負荷を腕で感じる。
防塵ゴーグル越しの視線を上げると、スターターの杖の先に光が集まっていた。
その光が強まって、臨界点を越えた瞬間。破裂音と共にスタートの合図が放たれた。
思い切り大地を蹴り、己の内から魔力を開放。ボルケーノの穂にあたる部分に叩き込めば、埋め込まれた魔石から炎が噴出した。
蒸気機関に比べれば、この初速は断然速い。けれどスピードレース用に調整されたホウキとその乗り手は、当たり前のように前を飛んでいた。
防塵ゴーグルに砂が叩きつけられる。前方のレーサーが巻き起こす風が髪を暴れさせた。
木製ホウキの動力は風属性のマナだ。特に速度偏重のホウキとなれば、後方を気遣うような造りはしていない。
先頭集団に入れないことは確定していたから、風の洗礼を受けるのも分かっていた。ボルケーノの火力は控えめに、確実にコースを走ることを優先する。
鉄製ホウキの難点は、制御の難解さそのものだ。
アイアスのホウキは止まれない。速度を出したまま、己の重心移動でコーナーを曲がる必要がある。
──焦りは禁物だ。たとえ戦闘集団がはるか前方にいたとしても。
集団の最後尾に貼りついたまま、付かず離れずを維持する。知らず流れていた冷や汗が風で吹き飛んでいく。空気の流れる音が耳元で延々鳴り続けるのももはや気にならず、過集中のせいで遠く客席からの歓声や怒号すら聞こえてきそうだ。
重苦しい低音の怒声は、聞き慣れた声音のような気もする。おそらくアイアスから来たドワーフ族だ。
まず間違いなくボルケーノの勝ちに賭けているから、俺がモタモタしているのが許せないのだろう。
守銭奴とすら呼ばれる彼らだが、土にこだわる性質から強い郷土愛を持っているのだ。
レースも終盤。レーサーが順に最終コーナーへ入っていくのを尻目に、俺はアウトコースへ膨らんでいく。
スピードレースの最後の直線。
アイアスのホウキが輝けるのはここしかない。
姿勢は低く。風圧で吹き飛ばされないように柄を握りしめる。
──鉄製ホウキの筒状になった穂から、後方に向けて放たれる炎を竜の息吹(ドラゴン・ブレス)と表現したのはどこの情報誌だったか。
その比喩が気に食わなかった職人が作ったのが火山(ボルケーノ)だ。
目の前が開けて誰の背中も見えなくなった瞬間。ボルケーノに内蔵された魔石へ再度魔力を注ぐ。
今度は全力だ。アイアスと違ってマナは有り余っている。周囲から集めてまとめてしまえば、魔石から放たれる炎は更に強くなる。
火炎が炸裂。爆発的な加速で直線を飛ぶ。
歓声が聞こえなくなった。観客席の最前列で、ドワーフ族が箒券を放り投げた姿勢のまま固まっている。ゴーグルに当たった砂利の一粒までを引き伸ばされた知覚で視認した。
二、三メートルの距離を取って、左手に並ぶ木製ホウキのレーサーたちを遠慮なく抜き去っていく。
ここまで来れば、意識すべきは“ゴールの先”だ。
ゴールラインは瞬きの間に通過。直後から減速を始めて、段々と音が戻ってくる。
いっそ熱狂的な歓声だった。コース外周の壁が近づくにつれて悲鳴じみた声も混ざってくるが、俺がギリギリで曲がり切ればそれも収まって歓声だけになる。
充分に減速しきってから、思い切って飛び降りる。ぐるりと見渡せば、席を埋め尽くした観客たちがアイアスの鉄製ホウキの初勝利に沸き立っていた。
最前列のドワーフ族はといえば、ついさっき放り投げた箒券を必死に探していた。
古びたアパートの扉の前で、かれこれもう五分も悩んでいた。
日も沈みきってはいるが、夜が更けたとは言いがたい時間帯。通りを二本も移ってしまえば明るさが保たれているだろうが、この辺りは“夜型”の少ない地区らしく、生活に伴う光も音もかなり控えめだった。
そんな場所だから、当然人目はない。ないのだが、五分もアパート前にとどまっているのはさすがに気が引けた。
まだ春になったばかりで、日没から気温はにわかに下がり始めている。このまま立ち尽くしていてもただいたずらに体を冷やすだけのことは明白だった。
ごくりと生唾を飲んで、扉を押し開ける。
古い見た目の割に、金具の軋む音もなく、滑りもなめらかだ。暗いホールには貸し住居の玄関扉が二つと上下階に続く階段。この町ではよく見る形のアパートの造りだ。
おそるおそる踏みしめた床も、やはり音は鳴らない。古い床板は張り替えた様子もないので、最新の防音魔法かなにかがアパート全体に施工されているのだろう。
近所迷惑にならないことが分かれば、足取りも多少は軽くなる。階段を上がり、最上階の三階へ。南の通りに面した部屋が目的地だ。
黒ずんだ扉には、簡素な看板がかけられている。
「CLOSED
OPEN 10:00〜19:00」
分かっていたことだった。アパートの前で五分も悩んでいたのはこれが理由だった。
ため息を一つ。明日朝一で出直そう。
踵を返そうと半歩引いた瞬間、「CLOSED」の看板をかけた扉が内側から開かれた。
「いらっしゃいませ」
平坦な声がした。
メイド服を来た自動人形(オートマタ)がそこに立っていた。
「旦那様がお待ちです」
有無を言わせぬ口調で自動人形が告げる。
営業時間外にも対応してくれるのはどうしてなのか? という当然の問いに対しても、答えてはくれないのだろうと妙な確信がある。
半歩引いていた足を戻し、促されるまま入室。
アパートの一室らしい短い廊下を抜けると、思ったより広い居室に一人がけソファが向かい合って二脚。少し離れた暖炉の前で、ロッキングチェアに揺られているのがこの部屋の主らしい。
「すまないね。客を迎えるというのにこのような格好で」
男は風呂上がりと思しきナイトガウン姿だった。その上、目元から額は柔らかい紙製の使い捨てアイマスクで覆われていた。表面には、魔法陣特有の淡い光が浮かびあがっている。そういえば、新作で治癒魔法つきの三つ目仕様アイマスクが出ていたな、とどうでもいいことを思い出す。
ひとまず、閉店後の来訪を詫びる必要があった。半ば定型文のようになってしまった挨拶に対して、部屋の主はひらひらと右手を振る。
「招き入れたのはこちらの方さ。この状況でも迎えねばならない、と私が判断したという理解をしてもらえればそれでいい」
そう言う間に、自動人形が椅子と小さな机を用意していた。腰かけると、柔らかな香りのする薄い色のハーブティーがすぐさま机上に配膳される。
普段来客用に使っているはずの一人がけソファを使わないのは、今が営業時間外だからか。部外者には判別のつかない魔術的な意味合いを持たせているのかもしれない。己の行使する魔法を補助するため、“依頼者”との会話を一種の儀式として扱っている可能性もある。
「春になったとはいえ夜は冷えるだろう。まずはリラックスして欲しい。私の“目”を曇らせる要素を減らすためにね」
放っておいたらいつまでも話していそうな流暢な口調とよどみない声音は、いっそ安心感すらある。
眠気を誘いそうな香りのハーブティーを一口。ちらりと伺うと、紙製アイマスクの発する魔法陣の光は先程よりも弱くなっていた。
「これは素晴らしい新商品でね。三つ目用サイズを作ってくれたのはもちろんだが、魔眼にも効く治癒魔法が組み込まれているのが大変ありがたい。惜しいのは、私がこの後すぐに眠りにつけないことだけかな」
言いざま、男は親指をひっかけてアイマスクを持ち上げた。下の二つ目は閉じたまま、額で鮮やかな青がこちらを射抜く。
魔眼を持つ安楽椅子探偵。その素質と職業を兼ね備えるのは珍しいことではないが、未来視と読心を兼ね備える魔眼は希少だ。
その魔眼の力でもって、男はあっさりと話を進めていく。
「それでは聞かせてくれ、私より先を視るものよ。あなたがなにを“視”たのか」
日も沈みきってはいるが、夜が更けたとは言いがたい時間帯。通りを二本も移ってしまえば明るさが保たれているだろうが、この辺りは“夜型”の少ない地区らしく、生活に伴う光も音もかなり控えめだった。
そんな場所だから、当然人目はない。ないのだが、五分もアパート前にとどまっているのはさすがに気が引けた。
まだ春になったばかりで、日没から気温はにわかに下がり始めている。このまま立ち尽くしていてもただいたずらに体を冷やすだけのことは明白だった。
ごくりと生唾を飲んで、扉を押し開ける。
古い見た目の割に、金具の軋む音もなく、滑りもなめらかだ。暗いホールには貸し住居の玄関扉が二つと上下階に続く階段。この町ではよく見る形のアパートの造りだ。
おそるおそる踏みしめた床も、やはり音は鳴らない。古い床板は張り替えた様子もないので、最新の防音魔法かなにかがアパート全体に施工されているのだろう。
近所迷惑にならないことが分かれば、足取りも多少は軽くなる。階段を上がり、最上階の三階へ。南の通りに面した部屋が目的地だ。
黒ずんだ扉には、簡素な看板がかけられている。
「CLOSED
OPEN 10:00〜19:00」
分かっていたことだった。アパートの前で五分も悩んでいたのはこれが理由だった。
ため息を一つ。明日朝一で出直そう。
踵を返そうと半歩引いた瞬間、「CLOSED」の看板をかけた扉が内側から開かれた。
「いらっしゃいませ」
平坦な声がした。
メイド服を来た自動人形(オートマタ)がそこに立っていた。
「旦那様がお待ちです」
有無を言わせぬ口調で自動人形が告げる。
営業時間外にも対応してくれるのはどうしてなのか? という当然の問いに対しても、答えてはくれないのだろうと妙な確信がある。
半歩引いていた足を戻し、促されるまま入室。
アパートの一室らしい短い廊下を抜けると、思ったより広い居室に一人がけソファが向かい合って二脚。少し離れた暖炉の前で、ロッキングチェアに揺られているのがこの部屋の主らしい。
「すまないね。客を迎えるというのにこのような格好で」
男は風呂上がりと思しきナイトガウン姿だった。その上、目元から額は柔らかい紙製の使い捨てアイマスクで覆われていた。表面には、魔法陣特有の淡い光が浮かびあがっている。そういえば、新作で治癒魔法つきの三つ目仕様アイマスクが出ていたな、とどうでもいいことを思い出す。
ひとまず、閉店後の来訪を詫びる必要があった。半ば定型文のようになってしまった挨拶に対して、部屋の主はひらひらと右手を振る。
「招き入れたのはこちらの方さ。この状況でも迎えねばならない、と私が判断したという理解をしてもらえればそれでいい」
そう言う間に、自動人形が椅子と小さな机を用意していた。腰かけると、柔らかな香りのする薄い色のハーブティーがすぐさま机上に配膳される。
普段来客用に使っているはずの一人がけソファを使わないのは、今が営業時間外だからか。部外者には判別のつかない魔術的な意味合いを持たせているのかもしれない。己の行使する魔法を補助するため、“依頼者”との会話を一種の儀式として扱っている可能性もある。
「春になったとはいえ夜は冷えるだろう。まずはリラックスして欲しい。私の“目”を曇らせる要素を減らすためにね」
放っておいたらいつまでも話していそうな流暢な口調とよどみない声音は、いっそ安心感すらある。
眠気を誘いそうな香りのハーブティーを一口。ちらりと伺うと、紙製アイマスクの発する魔法陣の光は先程よりも弱くなっていた。
「これは素晴らしい新商品でね。三つ目用サイズを作ってくれたのはもちろんだが、魔眼にも効く治癒魔法が組み込まれているのが大変ありがたい。惜しいのは、私がこの後すぐに眠りにつけないことだけかな」
言いざま、男は親指をひっかけてアイマスクを持ち上げた。下の二つ目は閉じたまま、額で鮮やかな青がこちらを射抜く。
魔眼を持つ安楽椅子探偵。その素質と職業を兼ね備えるのは珍しいことではないが、未来視と読心を兼ね備える魔眼は希少だ。
その魔眼の力でもって、男はあっさりと話を進めていく。
「それでは聞かせてくれ、私より先を視るものよ。あなたがなにを“視”たのか」
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プロフィール
HN:
射月アキラ
HP:
性別:
女性
自己紹介:
一次創作・オリジナルなファンタジー小説書き。
普段はサイトで好き勝手書き散らしているが、そこでページ作るのもめんどいと思ったらこっちで好き勝手書き散らす。短い話はだいたいこっちに投げられる。
褒めても喜びけなしても喜ぶ特殊体質。
ついった:@itukiakira_guri
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