眼下には鬱蒼と茂る森が広がっていた。
落下しているというのに内臓が持ち上げられるような感覚を覚えるのは、慣性かなにかの影響だろうか。意地汚くその場に留まろうとする俺の肉体を、重力は遠慮なく掴み、引き寄せてくれる。
自殺行為。けれども必要な「身投げ」だった。
上方、崖の上で急制動をかける馬のいななきが聞こえる。
次いで落ちてくる砂や小石。どうやら追っ手は、かなりギリギリのところで止まったようだ。
ヒトの枠などとうに超えた身ではあるものの、騎馬に追われれば追いつかれるのは時間の問題。だから身投げをする羽目になったのだが、落下地点に木や水などはなく、下草がいくらか生えている程度のようだ。このまま落ちれば当然、ただでは済まない。
身をひねり、肩甲骨から生えた白骨の腕を振るう。掴んだ大鎌の刃を岸壁に突き刺し、落下速度を減衰。
ガリガリガリガリ! とけたたましく崖を削る刃は、どうにかブレーキの役目を果たしたらしい。着地するころには、軽く膝を曲げるだけで吸収できる衝撃しか残ってはいなかった。
ひとまず馬の足は止めた。しかし、逃走中の身に頭上を確認する暇はない。
岸壁から鎌を抜き、まずは次の経路を探すために周囲を改めようとしたところで、
「──誰?」
問いが投げられた。
なにかを押し殺すような、低く抑えられた声だった。
一般人か、と即断するも、安心することはできない。
〈十三番〉の名を背負ったときから諦めていることではあるが、今の自分の姿はお世辞にも人間らしいとは言いがたい。
肌は青白いを通り越して白く、眼球はすべて黒く塗りつぶされ、肩甲骨から生えた巨大な腕は白骨の身で構成されている。
生身の両腕を失った身としては便利な「腕代わり」なのだが、そんなことを知る由もない他人からすればバケモノか、よくて死神のように見えるわけで。
つまり、無駄な戦闘か、あるいは悲鳴を浴びることを覚悟しなければならない。
──はずなのだが。
今回ばかりは勝手が違った。
覚悟する暇もなく、体が動く。白腕が鎌を持ち上げる。
そう命じたわけでもないのに、臨戦態勢を整えている。
「……?」
理性は疑問符を浮かべていたが、肌からは冷や汗が噴き出ていた。
声のした方へゆっくりと振り返ると、思ったより背の高い人影が佇んでいる。高い身長と体格の良さから男だと思われるが、とにかく赤黒いという色彩的な印象がまず強い。
原因は黒いコートだろう。遠目からでも血が染みついているのが分かるのは、死の匂いを嗅ぎとる大アルカナ【十三番】のせいだろうか。次に、顔の右半分を隠す暗い赤毛。濃い色付き眼鏡までかけているから、肌の色がほとんど見えなくなっている。
その、眼鏡の奥。
元の色さえ判別できない瞳と視線が合った瞬間に、理性が体に追いついた。
殺意と呼ぶには純粋すぎるモノが、その目に宿っている。
殺人欲求? 生ぬるい。もっと根本的な、ともすれば生物的な──殺人衝動とでも言った方が正しい。
問うた声が低く抑えられていたのは、死神のような俺の姿に恐怖しているのだと思っていた。
違う。彼は自分の衝動を押し殺している。
となれば、彼はこの場にいるべきではない。おそらく、追っ手は既に俺の現在位置を知り、向かっているはずだ。
奴らは対話を受け入れず、理性をもって俺を殺しに来る。追いつかれてしまえば、戦闘を避けることはできない。殺人衝動らしいなにかを抑えている人間にとって、小規模とはいえ戦場という環境は厳しすぎるはずだ。
俺に向けて殺人衝動を発散させていない時点で、庇うだけの理由は成立する。
「殺しをしたくないと思っているなら」
「!」
色付き眼鏡の奥で、目を見開いているのが窺えた。
「逃げ──」
「いたぞ!」
俺が最後まで言い切るだけの間もなく、荒げた声が言葉を遮った。
方向は左。声が聞こえる距離ではあるが、まだ遠い。
「急げ。奴らに話は通じない」
続けて言い捨て、赤黒い男に背を向けて声のした方へ向かい直す。
こちらに向かってくる足音は二〇人程度。「聖歌隊」としてはそこそこの規模だが、俺一人を殺すために派遣されたとなればかなり多い部類に入る。
全員が、病的に白い長衣をまとっている。潔癖すぎる白はあまりに人工的で、森の中ですさまじく目立つ。
だから、こちらが追う身になれば、殺すことはおそらく容易だ。
近づくことさえできれば。
「〈これは神の怒りである〉」
短い斉唱。
後に続いて、腹に響く轟音。
白い集団を始点として、地面と水平に走る雷が炸裂する。
直撃すれば人一人程度消し炭にする一撃を、かろうじて受け止めるのはアルカナの【十三番】の力だ。抑制に停滞、腐敗に抑圧──雷を押しとどめるだけの象徴と意思をあるだけ込める。
体の前に構えた大鎌の刃の先で、雷が止まる。
ただし、それだけ。
自然現象ならば即座に消えるはずの雷光は、衰えることなく圧を加えてくる。
バチバチと弾けるような音の向こうで、いまだ聖歌が続いているのが聞こえた。
厄介なことに、相手は俺に対しての対抗手段を確立しつつある。過去に何人か仕留めそこなった残党が、情報を持ち帰っているのだろう。
死神の姿で動揺を誘う術など、とうに使えない。現に、相対している今だって、聖歌に微塵の乱れも見られないのだから。
どうするか、と思案していると、隣で土を踏む音。
視界の端で赤黒い色が揺れて、思わずそちらに目を向ける。
「……きみは」
低く抑えられた声が、雷の音に紛れながらも届いてきた。
その表情は、赤毛に遮られて見ることができない。
あくまで穏やかに、言葉は続く。
「あの人たちが死んだら、助かる?」
数瞬、呼吸が止まる。
不意を突かれた。雷を止める防壁が崩れなかったのが、自分でも不思議なくらいだ。
死神のような姿を拒絶せず、あろうことか協力を申し出てくる人間など、今まで一人もいなかったのだから。
視線を前方に戻す。
雷の圧力は、いまだ衰える気配がない。
鍛えられた聖歌隊の喉は、この程度の時間経過でガタがくるほど脆いものではないらしい。
「……あぁ、そうだな」
そう返すと、隣で安心したように息を吐き出す音。
「じゃあ、これは依頼ということになるのかな」
「謝礼が必要ならいくらでも」
「あ……いや、そういう意味じゃ」
「冗談だ」
払うものは払うが。
しかし、殺人衝動を理性で抑えているはずなのに、殺人の依頼を受けるなどと言ってくるとは。否、それほどまでに、衝動が強いということか。
見れば、彼の右手は既に刃物を掴んでいた。
斬るより突くことに特化した、錐のような形状。
視線を上げると、彼もこちらに顔を向けていた。色付き眼鏡に雷の閃光が反射して、表情を覗うことはできない。
「僕はアディ」
呆気にとられる間もなく。
「えっと……一応、依頼になるなら名乗っておいた方がいいかな、って」
そう言われてしまえば、苦笑を返す他ない。
随分と久しぶりに、人間らしい会話をしているような気がする。
「〈十三番〉だ。そう呼ばれてる」
今度は、赤黒い男が──もとい、アディが呆気にとられる側だった。表情がほとんど見えないのに、きょとん、としているのが分かるのは、地が表情豊かだからなのだろうか。
実際、名前らしい名前を聞いたわけでもないのに、すぐ後には「うん、よろしく」と言ってのけるあたり、あまり深くは考えていないような気もするが。
ともかく。
まずは、足止めされている現状を打開しなければならない。
「奴らの集中を切らせば、この雷は止まる」
努めて簡素に説明すると、アディはこくりと頷いて応えた。
しかし、最短距離を貫くルートは雷の荒れ狂う危険地帯。森の方から隠れて進み、背後を突くのが得策だろう。
と、思ってはいたのだが。
「それなら、すぐにできそうだね」
なんでもないことのように言うアディが、二、三歩後ろに下がる。
問い直す時間は与えられなかった。
足裏から微震を感じるほどの衝撃と共に、アディの体が加速。
低く沈めた姿勢から一気に跳びあがり、勢いそのまま岸壁を走る。眼下で雷が炸裂しているにも関わらず動きに鈍りはなく、最後には崖を蹴ってそのまま白服集団の元へ突っ込んでいった。
「……な」
呆けた声が自分の口から出たものだと気づくのに、しばしの時間を要した。
思わず防衛のための力すら緩むが、それは向こう──白服集団も同じこと。衰える様子のなかった雷が勢いを弱め、絶えることのなかった聖歌は悲鳴と怒声が入り混じっている。
雷の残滓を切り払うと、白服集団に一点、赤黒い異質が紛れていた。
アディだ。
あの移動方法の最中、標的を吟味することができたのかは不明だが、集団の中心にいた人物が最初の犠牲になっていた。
赤黒いコートの背中に隠されているが、白服の体はぶらりと揺れ、足が地面から浮いているように見える。
後ろに向かって投げ捨てるように、アディは白服を──死体となったものを解放。
死体は顎の下から血を噴きながら地面に落ちる。白い服が赤く染められていくのが遠目に見えた。
いっそ生物的と言った方が正しい殺人衝動。その発露が、これか。
大鎌を片手に近づいていくと、生き残った白服集団はにわかに慌てだした。おそらく最初の被害者は集団の中心人物で、指揮者のような役割を担っていたのだろう。
とはいえ、その指揮者がいなくなったとして、「信仰心」さえ持ち直しさえすれば、もう一度雷を呼ぶことはできる。
持ち直す暇を与えるほど甘い人間が、ここにいればの話だが。
「…………」
アディは無言で、次の標的へと向かっていった。
二人目、三人目と殺していくたびに、刃物が振るわれる回数が増えていっているようにも見える。抑制が効かなくなっていくのか、あるいは鮮血に誘われるのか。刺す回数が多くなればなるほど、まき散らされる赤の量が増え、相手の戦意をことごとく削いでいく。
アディ一人でも充分に殲滅できそうではあるのだが、それはこちらが手を抜く理由になりはしない。
唯一平静を取り戻したらしい白服が、護身用らしい短剣を掴んでいる。目の前の脅威に気を取られすぎているのか、こちらを警戒する様子がない。
残った距離を二歩で詰め、大鎌を振り抜く。身を守ることを想定していない長衣はたやすく裂け、袈裟懸けに肉と骨を断つ。
振り返ったアディに視線を向けると、前髪で隠れていない左頬が濡れていた。返り血を薄める透明な液体は、涙か。
それを見とめられたのは刹那の間だけで、互いに敵意のない者へ目を向ける暇などない。
中心人物を亡くし、どうにか逆襲しようとした者すら喪って、白服集団に反撃の意志はないようだ。
だからといって、刃が鈍るはずもない。
血生臭い戦場は、さらに血色の深さを増していく。
*
白服集団の殲滅に、それほど時間はかからなかった。
気づけば立っているのは俺とアディの二人だけ。そこらに転がった血肉からは、さっきまで聖歌やそれに伴う超常現象を起こしていたことなど感じられない。
終わったか。そう思った途端、頭上から馬のいななきと蹄の音がした。
アディと出会う直前、撒いたと思っていた追っ手だ。どうやらあの後、聖歌隊から離れた場所でこちらの様子を覗き見ていたらしい。
またこちらの情報を知られることになったが、追いつく相手ではない。この際仕方のないことだと思って諦める。
問題は、アディか。
俺の仲間である、などという誤情報が伝わる可能性もある。加えて、さっきまでの苛烈さが、急激に消え去ってしまったことが気になった。顔を拭う動作にも力がない。
「移動しよう。別の追っ手が来ても困る」
「あ……うん」
声をかけられてどうにか反応を返す、という体のアディ。
この場に留まるのが得策でないのは明白で、血の匂いは俺でも酔いそうなくらいに濃い。
とにかく見晴らしの悪い方へ──森の中へ進んでいくと、独特な土の匂いがどうにか死臭を薄めていってくれる。拭いきれないのは返り血だけで、それも偶然見つけた水辺がどうにか解決してくれそうだった。
浴びた血を軽く洗い流すと、アディも多少は落ち着けたらしい。俺も大雑把に鎌の刃から血を拭い、ベルトで体に固定。得物を背負ってしまえば、白骨の腕も必要なくなる。
解放したままにしていた【十三番】の力を抑えると、肩の後ろから生えていた腕が消える。
死神らしくなっていた外見の要素は、ほとんどが通常の人間らしく元に戻る。骨のような色をしていた肌は肉の色を取り戻し、眼窩のようになっていた目も治っているはずだった。
ただ、とある事情で失った両腕だけは、どうしても戻ってくることがないのだが。
「……あれ」
顔についた血を落とし、色つき眼鏡をかけなおしたアディが振り返って動きを止めた。
「〈十三番〉、だよね?」
眼鏡の奥で目をまばたきさせるアディ。
背筋を凍らせるような殺意はどこにもない。これが、彼の素なのだろうか。
ともかく、肩をすくめて応える。
「意外と普通の外見で驚いたか?」
「……ちょっと」
ためらいながら言ったあと、アディは困ったように笑いながら言った。
「やっぱりリトはすごいな」
「?」
話の流れは分からないが、今は保留しておくべきか。
「とにかく、巻き込んで悪かった。謝礼というか、報酬の話だが、」
「あ、それなんだけど」
血を洗い流すために屈んでいたアディが、立ちあがってこちらに向き直る。
「たぶんだけど、僕、違う世界から来てるんだと思う」
意味を飲み込むのに少し時間がかかったが、理解できないことでもない。
アディが抱えているらしい殺人衝動と、それを拒否する理性。たとえばどちらかを強制的に個人の中に埋め込むとして、魔術の原理でも奇蹟の原理でも必要なのは象徴だ。そして、殺人衝動を司りそうなものは、見た限りではアディの中にはなさそうだった。
しかし、違う世界。
「その発想がある時点で、文化圏が大きく違うようにも思えるな」
世界そのものを司ろうと考えた元人間なら知っているが。
「それはリトが……えっと、違う世界から来た子を知ってるからなんだけど……ちなみに、ここってニホンじゃないよね?」
「ニホン? 地名か?」
「ううん、国の名前。つまり……リトの世界とは違うところなんだね」
別世界は少なくとも二つ存在する、ということか。
上機嫌に【世界】が踊りだすイメージが浮かんだ。奴がいたら、嬉々として話を反らしていったことだろう。たとえば、アディが知っている世界の話だとか。
あるいは、自ら別世界を創りだすなんてことを言い始めるだろうか。
「なら報酬は、金貨よりも元の世界に戻る方法がいいということか」
「まぁそうだけど……あるの?」
「おそらくは」
仮定を挟み。
「ここでの法則が適用されるなら、アディも魔術が使えるはずだ」
「さっきの雷みたいなのが出せるの?」
「やろうと思えば」
そう言うと、アディは見るからにやる気を出して、こちらに身を乗り出してくる。どころか、心なしか色付き眼鏡の奥の瞳が輝いているようにも見える。なぜだ。
「言っておくが、帰り道を探す魔術から雷は出てこないぞ」
「えっ」
「むしろかなり地味な部類だ。過度な期待はするな」
視覚的な話はともかく。
必要なものは細長い棒状のもの。自分となにか関係のあるものだとなおよし。と伝えると、アディは迷うことなくコートから錐を取り出した。
先ほど使っていたものとは違うらしいが、十分すぎるくらいには使いこまれているように見える。用途について言及すべきではないだろう。
「それじゃあ、錐の切っ先を地面に軽く刺して、帰りたい場所を思い浮かべてくれ。会いたい人でもいい」
「リト」
アディは即答すると、跪いて言ったとおりに地面に錐を刺す。
「さっきも聞いた名前だな。どんな人だ?」
これは、イメージの補助。
魔術の発動は意思の強さで決まる。
「小さくて、ふわふわしてて、ぎゅってしたら暖かくて」
小動物か? とは言わないでおく。
こちらでは、アディはかなり高身長な部類だ。彼より小さい人間だってたくさんいるだろう。向こうの世界が──いや、そのリトという人物の住んでいた世界が異常でなければ。
「……絶対に、会いたい人」
「錐から手を放せ」
言い終わるかどうか、というところで、アディは即座に号令を実行する。
「あれ?」
アディの視線の先で、支えを失った錐は震えながらも直立していた。錐自身が、倒れる方向を考えているようにも見える。
次第に、錐の柄尻が円を描き始めた。
どう考えても物理的ではない動きに、アディが慌てて数歩下がる。
「な、なにかまずいことした?」
「いや、成功だ。最終的に錐が倒れた方向に、帰りたい場所がある」
本来なら、自分にとって必要なものを探すための魔術なのだが。
何回か円を描いたあと、錐はぱたりと呆気なく倒れた。
水辺に沿って、もう一度森の中へ戻る──先ほど戦った場所から離れる方角だ。
「向こうに行けばいいってこと?」
「しばらく進んだら、また同じことをやって方角を修正していけばいいだろう」
普通に倒れるようなことがあれば元の世界に戻れているのだろうが、その先を保障することはできない。
倒れた錐をおそるおそる掴み、アディが立ちあがる。
「ありがとう、〈十三番〉」
「こちらこそ、アディ」
短い会話を交わすと、アディは錐が指した方向へ走って行った。
後ろ姿は家路を急ぐ子供そのもので、殺し屋や殺人鬼のような空気をまとっていたとは思えないくらいだった。
赤黒いコートを見送ってから、反対の方向を見遣る。
理性は白服集団の残党狩りをするべきだと言っていたが、そんな気分になれないのもまた事実。
目下の問題だった、敵の主力部隊を殲滅できただけでも良しとするべきか。
ひとまず、拠点としている場所へ戻るべく、アディが向かった先とも、白服集団のいた場所とも違う方向へ足を進めた。
帰ったら【世界】から詳細な報告を求められるだろうことだけは、覚悟しておかなければならないが。
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はんだごて)のアディさんとうちの〈十三番〉(
『No.13』)でコラボさせてもらいました
月景さんのイラストはこちら